
「なぜ、植物図鑑か」
著 者:中平卓馬
発行所:筑摩書房
写真を上手くなるために本を読んだりしたが、理論を身に着けても写真そのものはうまくならないということに気づいた。芸術や計算、記憶といった能力と言語を理解し使う能力とは、使う脳の部位が違うらしいのだが、何かの原因で言語にかんする能力に障害が出た人が、突然音楽に能力を発揮したりすることがあり、その人物が言語能力を回復するにしたがって音楽や絵画などの芸術の能力がもとのレベルに下がっていくということがあるらしい。また子供の頃は天才児として騒がれていた人が大人になればその能力が失われ、普通の人になることはよくあるらしい。私たちの年代では韓国の天才児、5歳ぐらいなのに大学入試の数学の問題を解いていた人が、今はただの人になっているように右脳と左脳の関係がそのような不思議な現象をおこすようだ。言語やコミュニケーションに障害のある人に芸術や記憶に突出した能力を持っている人がいるような現象が、事故などの後天的な脳の障害でも起こるらしい。前振りが長くなったが、ようするに写真理論をたくさん身に着けても写真はうまくならないと思うようになった。まあ、上手くない写真でも味のあるいい写真の場合もあるので、上手いという表現はおかしいのかもしれないが。そのように考えるきっかけになったのがこの本。著者は月刊誌「現代の眼」の編集者であったそうだからか、この本の中には当時の独特な言葉が出てくる。「自己否定」「写真をして写真たらしめよ」とか。そうしたことをすっとばして読むなら、なぜ「植物図鑑」なのか
それは要するに、イメージを捨て、あるがままの世界に向き合うこと、事物を事物として、また私を私としてこの世界内に正当に位置づけることこそわれわれの、この時代の、表現であらねばならない、ということであった。(中略)図鑑は直接的に当の対象を明快に指示することをその最大の機能とする。あらゆる陰影、またそこにしのび込む情緒を斥けてなりたつのが図鑑である。
これは「大阪写真月間2024記念シンポジウム」のパネリストが言った、「自己表現することに抵抗がある」ということなんだろうか。でもそれって不可能でしょ、と思う。AIを使ってもそれで出来上がった作品を他人に見せる、SNS上での作品とするその時点で自己表現された作品と言えるでしょと思う。学生時代にそうした言葉を聞いたような記憶があるが、「個性を出さないという意志が働いた時点で個性がでていると言えるのでは」つまり意識するなという意識が働いた作品は、意識が働いて作られた作品だということ。そうした論理で私たち理系の学生は文系の学生の芸術論に反論した記憶がある。パネリストは「集合的無意識」という言葉を使っていたが、その言葉も、私が学生時代に流行っていたという記憶があるが、当時からいろいろ問題のある言葉だと思っている。
で、年金生活者の今の私の結論は「楽しく撮ることだけを考えて撮るんだ」ということで、今、土門拳写真論集を読んでいる(笑)
スナップの場合は現実そのものに支えられていますから、作者の感覚と技術が常に弾力を持っている限り行き詰ることなく、人間的、社会的なすぐれたドキュメンタリーを残すことになります。