
民芸品は使ってこそ価値があるということで、茶道のお茶碗のように使い込むうちにお茶が染みこんだりして景色が変化することを楽しむ文化が日本にはある。木工品も同じで、人が使い込むうちに変化することで価値が上がるという感覚は、物に対する考え方にあると思う。NHK教育TVでは黒田自身が「木と対話しながら作っている。木の持っている生命力を迎え入れる」といったことを語っているように、木や石からそこに宿る神や仏を迎えるという発想が日本の仏師だけでなく、民芸作家にもあるようだ。西洋ではこの世は唯一の神が創ったので、人間の作るものは人間の分身でもあるのだろう。だから自分の作りたいイメージに拘るのだと思う。しかし、西洋では画家や彫刻家は貴族に雇われた職人として奴隷のような身分であったらしい。山本義隆「物理学の誕生」(筑摩書房)では16世紀までは、ラテン語の読み書きは貴族のすることであり、それができない人たちは、下層階級として蔑まれていた。そして体を使うことは貴族のするべきことではないとされていた。医者にしても、人体の解剖や治療行為などは医者のすることではなく、奴隷や職人などの下層階級のすることであって、医者はラテン語で論文を書くことに専念していた。ヨーロッパで何度も猛威を振るった感染症への具体的治療は民間療法を行う下層階級の人たちだった。つまり頭を使うことが上流階級のすることであり、体を使う職人のようなことは下層階級のすることだと認識されていた。それが変わったのは16世紀になって、下層階級の職人たちが、ラテン語ではなく自分たちの言葉で本を書くようになったことかららしい。芸術品が民芸品よりも高級だとする芸術評論家がいるが、彼らの認識はかなり新しい時代の産物のようだ。それとともに職人に対する見下ろすような意識は古い時代の認識の残渣のようだ。私のノートでは「1600年代になって絵画は職人芸から美術になった」と書いてあるのだが、その出どこが不明なので、たぶんそうだろうぐらいしか言えない。そういう頭(知識)偏重の意識・認識は現在でもあって、数学者や物理学者は頭がよくて、フィールドワークの学問をするような人間は頭が悪いと、悪口を言う数学者や物理学者の認識は、古いヨーロッパの「頭を使う人間は立派で体を使う職人は下級人だ」とする認識を無意識のうちに受け継いでいるからだと思う。日本では職人は左甚五郎のように神がかりになったりしているように逆に尊敬されてきたのではないのだろうか。また大岡越前守のような守という冠位は、武士だけでなく職能者にも与えられてきた。宮大工の棟梁などは現在でもXX守と名乗っている人がいる。
私は西洋絵画は印象派などを除いてあまり興味がない。そのことについては別の機会にこのブログで書き込みたい。大河ドラマで蔦重が取り上げられているうちに挑戦したいと思う。もう昼ごはんの時間だ。