kiyomizuzaka48の日記

一日一日を楽しく暮らしている老人の暇つぶしです。使用しているカメラはZ50とZ6とCOOLPIXーW300です。適当に撮って楽しんでいます。

動的平衡

動的平衡

著 者:福岡伸一

発行所:木楽舎

 

生命とはなにかということは、ずっと昔から多くの人たちが語ってきたが、分子生物学者からみるとどうなるかというお話。早速この本のなかから長くなるが引用してみよう。

 生体を構成している分子は、すべて高速で分解され、食べ物として摂取された分子と置き換えられている。身体のあらゆる組織や細胞の中身はこうして常に作り替えられ、更新されているのである。

 だから、私たちの身体は分子的な実体としては、数ヶ月前の自分とはまったく別物になっている。(中略)

 つまり、そこにあるのは、流れそのものでしかない。その流の中で、私たちの身体は変わりつつ、かろうじて一定の状態をたもっている。(中略)

 ここで私たちは改めて「生命とは何か?」という問いに答えることができる。「生命とは動的な平衡状態にあるシステムである」という回答である。

 私が学生時代は「人間とは」とか「生命とは」といったことで議論をすることが何度かあったが、多くの友人たちは哲学的な言葉で説明していた。私は好きな生物学的な観点から議論をするので、友人たちとは議論が噛み合わなかった。しかし、哲学的にも当時の私の生物学知識でも、生命を「流れ」という観点で考えたことがまったくなかった。分子レベルでは3ヶ月前の私と、現在の私とではまったく別物だという認識はまったくなかった。笑い話的に語れば、借金取りがやって来ても「借金したワシの身体は3ヶ月も経てば別の物質になっているんやから、3ヶ月前のワシと現在のワシは同やない。現在のワシはあんたはんに借金をしとらん。」という居直れることになる。

 現在の私と分子レベルでは別物の私が変わらない意識や記憶を持っているということはどういうことなんだろうか。ここに生命を考える新しい認識が必要になる。ロボット工学者には生命を情報として認識している学者もいるようだが、それでは情報が無限にコピーされた場合「個」という概念が無くなってしまう。そうしたイメージで書かれたSF小説は数多くあるが、それでは人間以外の生物もデジタル情報にするのかという問題が出てくる。地球上に存在し、発生し変化している有機物質としての生命体全てを情報に変換するのは不可能だろ?ということだ。それは物理学で私たちが存在している世界の全てを説明するのが不可能であることと同じではないのだろうか。

 また、生物を機械のように考える人たちもいる。遺伝子を設計図と考える人たちにそのような傾向を感じている。しかし、生命は機械と同じように考えられないというのが私の認識だ。遺伝子については話が拡がりすぎるのでここでは語らないが、一つ簡潔に語れば、遺伝子は設計図ではないということだ。今、遺伝子をレシピとして考えている人たちがいる。私もそちらのイメージのほうが近いような気がする。

 最後に、やはりこの本からの引用で「いのち」というもののイメージについて、皆さんと一緒に考えてみたい。

 生命は機械のようにいくつもの部品を組み立てただけで成り立っているわけではないという、厳然たる事実がある。

 「生命の仕組み」と「機械のメカニズム」の違いを読み解く一つのカギは時間だろう。基本的に、機械の組み立て方において、時間の順序は関係しない。

 あるべき部品がそこにきちんと組みこまれていればいいのである。どの部品から組み込んでもかまわないし、組み立てにようする時間が一時間であっても一年であっても同じ物が出来上がる。

 しかし、生命はそうではない。確かに生命はどんどん分解していくと部品になる。二万数千種類のミクロな部品。その部品(タンパク質)は今ではどれも試験管内で合成することができる。

 では、それを機械のように組み合わせれば、生命体となるだろうか。否である。合成した二万数千種の部品を混ぜ合わせても、そこに生命は立ち上がらない。それはどこまでいってもミックス・ジュースでしかない。