kiyomizuzaka48の日記

一日一日を楽しく暮らしている老人の暇つぶしです。使用しているカメラはZ50とZ6とCOOLPIXーW300です。適当に撮って楽しんでいます。

建築とは?

「らしい建築批判」

飯島洋一

青土社

 

非常識な建築業界

森山高至

光文社



ブログネタがないから読書感想なんだが、数年前に腰を痛めて立ち上がれなくなった、いわば逸ノ城状態になった時に、ついにお迎えが来たのかと思ってから、社会問題や政治問題など突っ込みどころ満載のテーマについてごちゃごちゃ語るのはなんとも面倒くさくてやめにした。ブログを書きながらその内容に対しての反論を考えながら書くと、物凄く時間がかかる。反論のための資料を集めなくてはならない。自分の現在の生活にダイレクトにかかわらないことに口出ししても時間の無駄だと思うようになった。他人のことに正義の使者づらしてあれこれ語るのは時間の無駄だと思うようになった。つい残された時間というものを考えてしまう。

今回のテーマは東京オリンピックで大騒ぎになった「新国立競技場計画案」について、政治家やなんでも評論家ではなく建築関係者の考えを知りたくて買った本。先ずは「らしい建築批判」から引用してみよう。
『その場所に関係なく、常にハディド「らしい」建築をいつも出してくる。(中略)彼女はまるで自分のポケットの中に、そのようなハディド「らしい」建築の持ち案をあらかじめ用意しているかのようで、どの国のどの都市の設計競技があったとしても、そのポケットから案を一つポンと拾い出して、それをそのままのかたちで、そのコンペに提出する(中略)ハディドは敷地の条件や、その土地の歴史や風土、周辺環境や気候、予算、あるいは実際にそれを使う人たちよりも、彼女自身の建築美学とダイナミズムの方を常に優先する。その美学優先主義こそが、彼女の作品が一貫して批評家に、ハディド「らしい」建築とと評価される最大の理由である』
もしそうならば、このハディドの案を採用しようとした某建築家がTVカメラの前で言っている「過去の歴史と新しい未来とを融合させた建築」とハディドの建築は全く相いれないないものだったのではないのか。
そうした建築業界を建築家という職業からみたのが森山高至の「非常識な建築業界」。私の感じたポイントをその本から引用してみよう。
『周囲の環境とはまったく調和しない、それ単体での成立を目指す彫刻のような建物を設計する「表現建築家」です(表現建築家と私=著者森山の造語です)。(中略)住宅であればそこに住む家族の数だけ、公共施設であればそこを利用する人の数だけ、さまざまな価値基準で建物に接します。(中略)そして彼らが設計する建物は、例外なく威圧的な「どや顔」をしています。』
私が有名な建築家の設計した建築物を前にしてお尻の穴がこそばゆくなった時は、「どや顔」建築物にたいして身体が生理的な反応をしているのだろう。