kiyomizuzaka48の日記

一日一日を楽しく暮らしている老人の暇つぶしです。使用しているカメラはZ50とZ6とCOOLPIXーW300です。適当に撮って楽しんでいます。

街角ピアノ

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「美の呪力」
著 者:岡本太郎
発行所:新潮社
西洋美術といえばキリスト教が歴史的に大きな影響をおよぼしているのだが、太陽の塔で有名な岡本太郎は、私たちが思い描くキリスト教とは大きく異なるイメージを提出している。彼はパリで芸術活動をするとともに、パリ大学で哲学・社会学民族学を学び、戦後は世界の各地へカメラを持って訪れているだけあって、普通の美術史家とは異なった視点で美術・芸術論を展開している。そこのところが私のような美術・芸術に無知な人間にも興味を持たせる。彼の著作は他にも文庫本で数冊でている。

さて、本を読んでブログに書き込む作業に疲れてきて、飽きてきたので今回で終わりにします。私は常に体を動かしていなければ頭も動かない人間なので、少しづつ体を動かすことに時間とエネルギーを費やそうと思います。
私にとって写真を撮ってブログに載せることはNHKBS1「街角ピアノ」のようなもので、自己流の人も、本格的にクラッシックピアノを習った人も、それぞれの人生を街角のピアノに込めて演奏するような気分でやっています。これからもそうした思いでブログを続けたいと思います。
暫くの期間、美術についてごちゃごちゃ書き込んできたので、最後により幅広く美術を理解するために買って読んだ本を数冊載せます。読んだ成果(?)はまるでないけれど、現在の自分に満足しています。

 

 

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量子力学と私」
著 者:朝永振一郎
編 者:江沢 洋
発行所:岩波書店

 

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ピカソは本当に偉いのか?」
著 者:西岡文彦
発行所:新潮社

 

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空旅人別冊 「BANKSY~覆面アーティストの謎~」
編集人:栗原紀行
発行所:株式会社三栄

西洋美術史

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増補新装カラー版 西洋美術史

監 修:高階秀爾

発行所:株式会社美術出版

 

初めに「原始美術と古代オリエント美術」として青柳正規が書いている部分を引用する。

【ラスコー洞窟やアルタミラという洞窟の動物像はほとんどすべて側面観で描かれているが、ビソン(野牛)のような偶蹄類の蹄は正面観に近い角度で描写されている。動物の健康状態を現す部分として先史人も脳裡に鮮明に記憶されていた結果である。一方、ギリシャ幾何学文様様式時代の陶器画に描かれた人物像は頭部と下半身が側面観、上半身が正面観で表されている。どちらも一つの形像を異なる視点から捉えているという点で類似した描法のごとく考えられるが、前者は獲物としての動物の特質を把握するために記憶されていった結果であり、後者は形態力の最も強い面が造形表現のために選択された結果である】

この人物像の描き方はエジプト絵画やメソポタミア絵画(この本ではシュメール美術と表記)と同じように思える。またそうした絵画・美術からギリシャ美術は影響を受けていると思える。山田五郎「西洋絵画入門」では【プロポーションン重視のリアルで躍動的な肉体表現】としてクレタ島紀元前16世紀の《百合の王子》が取り上げられているが、その画はあきらかに頭部と下半身が側面で上半身が正面に描かれてる。山田五郎はそのことに一言もふれていない。ただ人体に応用された黄金比である八頭身であることだけが強調されている。

続く

 

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著 者:高野悦子
ボケっと年金生活を送っていた時に、書店でこの本を目にした。50年近く前に出版された本が、文庫版になり、版を重ねてまだ書店で売られていることに驚いた。この本を読んだ頃は私は学生だったので、彼女の学生生活の様子などはある程度想像できたが、マスコミで大騒ぎするような感動は持たなかった。同じころ書店で見かけた長沢延子「友よ私が死んだからとて」のほうが、著者の突っ張り具合が、私が学内で見かける突っ張った女子大生たちと似ていたので本の内容をよく覚えていた。しかし、「二十歳の原点」が現在も書店で売られているとは想像もつかなかったし、発売当時はあまり話題にならなかった長沢延子の詩集が今年刊行されていることにまた驚いた。


今著しくいろいろなことが変化しているように思えるのだが、今変化していることはこれからも変化し続けるだろうけれど、今変化をあまりしていないことは、これからもあまり変化しないのではないだろうか。


若松孝二監督「11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち」で、三島由紀夫が死んで時が経ってから、三島夫人は空に向かって叫んだ「あなた!何も変わってないわ」

 

養老先生

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今週のお題「そうめん」年中食べてる。茹で時間が短いので重宝している。現在は冷たい麺つゆで食べることが多い。

 

「養老先生、病院へ行く」

著 者:養老孟司、中川恵一

発行所:株式会社エクスナレッジ

ここでも養老孟司らしいいろんな論理が展開されているが、ここでは統計に関する発言を引用する。

【統計というのは、個々の症例の差異を平均化して、数字として取り出せるところだけにデーター化します。逆にいえば、統計においては、差異は「ないもの」として無視しなければなりません。

差異というのはノイズです。先ほど「現実の身体というのはノイズだらけ」と言いましたが、統計を重視する医療の中にいると、データーから読み取れる自分が本当の自分で、自分の身体はノイズであるということになってしまうのです。

本来、医療は身体を持った人間ををケアし、キュア(治療)する営みです。それなのに、患者の身体がノイズだというのは、おかしなことです。

統計は事実を抽象化して、その意味を論じるための手段にすぎません。統計そのものに罪があるわけではありませんが、要は使い方の問題です。】

 

この本でヤマザキマリ東京造形大学客員教授ということを初めて知った。歴史の知識が物凄い漫画家とだけ思っていた。

古代エジプト美術の世界

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 古代エジプト美術の世界 魔術と神秘

監修・著:ロバート・スティーヴン・ビアンキ

発行所 :株式会社平凡社

エジプト美術についてこの本から引用する

【その目的は、見る人にひと目で最大限の情報を与えることであり、描かれた対象を瞬時に認識してもらうためである。実際の姿に近づけて事物を描くより、見る人が一見してわかるように描くことが重要だとされた。(中略)エジプト人を描いた人物像も平らで無色の背景のなかに描かれた。描かれた場面の時間を示唆するものは一切なく、空間を表す美術的な工夫もほとんどないため、あらゆるものが時空を超越した背景に描かれる】

【それぞれの事物はそれがもっとも特徴的に見える角度から描かれた。】

【人物のような複雑な対象を描く際は、その人間がもつ体のもっとも特徴的なところを強調し、それぞれを組み合わせて描いてみせた、たとえば、人間の頭部をもっとも特徴的に見せる方法は、横顔を描くことであり、現代でも硬貨などに採用されるが、正確に横顔を描こうとすると、目の形がわからなくなってしまうので、エジプト人は正面を向いたときの目を描き、そのままその目を横顔に組み入れた。(中略)人間の姿はこのようにそれぞれの部位が組み合わされて描かれている。】

この本では他にもエジプト美術について説明してあるが、もう一つだけ引用すると

【上部のものは後方にある】

つまり供物台に置かれた供物は見る側から後方にある物ほど上部に描かれるということ。これも供物のすべてをはっきりと描くという約束事による。

 

古代エジプト絵画

私が王家の谷ラムセス3世の墓で撮った写真です。

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右上の画を拡大したものが下の写真です。

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古代エジプト絵画を代表するポーズである、顔も足も横を向いているのに胸は正面を向いています。

同じ場所にかいてある画でも、左下を拡大したものが下です

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ごく普通に描かれています。なぜでしょうか?何か特定の意味があってこのように描き分けられたのではないでしょうか。

私は中学校の美術の時間に、美術担当教師から「エジプトの絵はおかしい。顔と足が横を向いているのに胸が正面を向いているなんて」と教えられた記憶がある。そして去年構図から絵画を鑑賞するという内容の本を2冊読んだのだが、2冊とも「エジプト絵画はおかしい」と書いてあった記憶がある。しかし本のどの部分に書いてあったのか付箋を貼っていないので、探せていなくて、本の名は出せません。記憶違いかも(汗)

次回はエジプト美術の本から。

今回の私の撮った写真の2枚目をよく見てください。顔は横を向いているのに目は正面から見た絵です。片方の目だけしか書いていないから横から見た目にみえるだけです。古代エジプト絵画を批判する人で、目のことを書いている人はまだ見たことがありません。ここから話が始まります。